「海辺のカフカ」を読み切ってわかったこと──ナカタさんと星野君がくれた〈謎と余韻〉の旅路

冬の静かな朝と分厚い一冊

クイーンズタウンの冬が本格化し、川面から立ち上る湯気が白いベールのように漂う朝です。薪ストーブの効いたリビングで湯気の立つコーヒーを手に取り、ようやく『海辺のカフカ』を読み終えました。ページを閉じた瞬間に残ったのは、「また村上春樹にやられたな」という、あの説明しがたい余韻でした。物語を完全に理解しようと身構えるより、文体のリズムに身を委ねて漂うのが、僕にとっての村上作品のいちばん贅沢な楽しみ方だとあらためて感じます。


カフカもだけどやっぱりナカタさんと星野君

読み進めるうち、もっとも深く刻まれたのはナカタさんの存在でした。読み書きができず、生活保護で慎ましく暮らす彼が、淡々とした日常の延長線上で“あちら側”へ足を踏み入れます。地位も名誉も欲しがらず、ただ「自分はナカタである」と静かに生きる姿に、どこか憧れすら覚えました。

もう一人は星野君です。序盤では粗雑で行き当たりばったりな若者として登場しますが、旅を通じて次第に芯が磨かれていきます。ナカタさんを守るように伴走しながら、自分が何者で、何を選び取るのかを見つめる姿が、物語のもう一つの背骨になっていました。


忘れられない場面 ― 猫と会話する午後の光景

ナカタさんが猫と話す場面では、ページの向こう側で小さなしっぽが揺れる気配さえ感じられるほど、生き生きとした空気が漂っていました。猫に「大塚さん」「河村さん」と名を付けて呼びかけるユーモラスなやり取りは、奇妙でありながら妙に温かいものです。実は私も自宅前に遊びに来る黒猫に「大塚さん」と名付けているので、思わず声を上げて笑ってしまいました。

一方、カフカ少年がストイックなまでに規則正しい生活を守り、筋トレを続けながら「生きる意味」を探し続ける姿には、15歳特有の切実さと危うさが溶け合っていました。筋肉に刻まれた回数分だけ、彼の孤独が積み重なっていくように感じられます。


読後に残ったもの ― 人生の多面体と“回収されない謎”

トラック運転手、図書館司書、資産家の娘、生活保護の老人、十五歳の逃亡少年。村上春樹は今回も、多種多様な人生の断面を提示してくれました。どれが正しいというわけでもなく、ただ「こういう世界もある」と示されるだけで十分です。謎は山ほど残ります。ジョニー・ウォーカーは何者だったのか。星野君が殺した“それ”は何だったのか。けれど、読み終えた今、それらを一つひとつ解き明かす必要性は感じません。不確かなまま余白を抱え、それでも物語が完結している――そこに村上作品の快感があるのです。


過去作品との交差点 ― 井戸、石、そして中央線

「入り口の石」のある神社や、底知れぬ井戸のイメージは『ねじまき鳥クロニクル』を思い起こさせますし、メタファーという言葉づかいには『騎士団長殺し』の影がちらつきます。新宿や中野区野方といった中央線沿線の風景は、『1Q84』あるいは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と地続きで、村上春樹の“平行世界”が静かに重なり合っているのを感じました。


次なる読書旅

現在はエッセイ『走ることについて語るときに僕が語ること』を再読中です。走ることを語るとき、村上春樹はとびきり饒舌になります。読み終えたら、デビュー作『羊をめぐる冒険』へ戻ってみるつもりです。作者の原点に触れれば、『海辺のカフカ』で撒かれた種子が、また別の角度から芽吹くかもしれません。


結び ― 「出たーこの感じ。」

ページを閉じて最初に浮かんだ言葉は、「出たーこの感じ。」でした。謎は謎のまま、それでもどこか心地よく、確かに満たされている。村上春樹ワールドの奥行きは、やはり底知れません。次に立ち入る森と海はどこへ通じているのか――その先を思うだけで、胸がまた少し躍ります。

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